世界史の勉強

世界史の勉強というのは、深淵さと、その範囲の無尽さという点で他の学問より甚大なところがある。だから、世界を勉強する上では、ページの上から下へと、ファクシミリ式で勉強するようなことはしてはいけない。

 

最近、中田敦彦さんのユーチューブ大学なるもので、「エクストリーム世界史」というのをやっていたが、とても面白かった。詳細をことごとく省略して、歴史の大骨格だけをまずは把握するという意味で、「エクストリーム」らしい。

まず、世界史の骨格をおさえて、次に、重要な臓器を配置し、さらには肉付けをしていって、模様を描くというように、抽象度の高いところから、具体的な詳細な知識へと、降りていくようにやるのが一番いい。

 

それにしても、世界史というのは、人文学を全て飲み込むほどの分野である。それは地理学に奉仕させ、経済学と政治学の源泉であり、文学と哲学の系譜である。したがって、世界史は文系諸学の全てを統合している。

 

世界史を見る上での大骨格をまず勉強するのがよいとはいったけれど、それはどのような骨格なのか?ということは難しい問題である。

まずはヘーゲル弁証法歴史観があって、世界の進歩に対する楽観的とも言える見方であった。さらには、そのドイツ哲学の伝統の先に、マルクスがあらわれて、社会主義思想とセットの唯物史観を発明し、それがつい最近まで、東大や京大の世界史教室に影響を振るっていた。

ところが、ソ連は1991年に崩壊し、教授たちはすっかりマルクス主義の看板をおろしてしまった。そのあと、学問がどうなっているのか?どのような体系のもとに展開されているのか?と問う時、そこに一貫性のある学問が喪失したことに気づかざるを得ない。

 

結局、人類が、貴族支配から脱して、民主主義による自由を獲得したという見方、つまり自由主義の勝利というテーマ、あるいは科学技術と経済発展、これくらいしか、我々現代の人類には世界史を紡ぐための糸がないようなのである。そして、経済発展の方を批判する論理は死んでしまい、イデオロギーの終焉がうたわれ、世界史教育というのも、どうしていいかわからない風になってきている。

 

一方で、世界史は、ひとつの面白い読み物である。と考えることもできる。すなわち、世界史から帰納法によって人類の一般法則を導こうとするような、大仰なことはやめてしまって、今ある諸国家や諸民族、そして彼らが作り上げた壮大なる建築や、文化や、都市といったものを把握するための、案内係のようなもの、ツアーガイドのようなものと考えるのも良いかもしれない。

 

我々人間というのは、とかく退屈しがちな生き物であるが、もし世界史というものに興味を持つことができるなら、退屈することを許さないほどの無尽の人類の営みの記録に慰められるだろう。