期待と失望の連続について

すべて高貴なるものであれば、多くのことに関して、期待と失望の連続がある。

 

というのも、高貴であればあるだけ、少ない部分から、美しい理想の全体を頭脳の中で構成することができるからである。

三島由紀夫にせよ、少なからず女性に辛辣なことばを残した男というのは多いが、それというのも彼らはその明敏なる感性と頭脳によって、女性の身体的美しさから、精神的な美までをも構成するだけの想像力の持ち主であったために、失望することもあったのだろう。

 

いずれにせよ、高貴さとは、希望のことである。あるいは、どんなに失望させられても、尚も希望を持ち続ける態度である。

アメリカの古典的名作『The Great Gatsby』のギャッツビーの輝きもこれによる。

 

オルテガも、ショーペンハウエルも、真の高貴さは血統ではなく、その精神のあり方にあると言っている。だが、それは時として高貴とは程遠い有様を外面においては現すかもしれない。逆に、まったく現状に満足した余裕から現れる血統的貴族の高貴さをどのように考えれば良いのか。

すなわち、高貴さの形式とは、血統的貴族の優雅さである。一方高貴さの原因、根本は、精神的高貴さである。したがって、原因はその外面において結果を表すとは限らない。しかし、常に本質は原因にある。

 

ギャッツビーは、緑のランプの先にある虚無を、薄々把握していたにちがいない。しかし、それを見て見ぬ振りをし、希望を持とうとする態度が高貴なのである。

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」と松陰はよんだが、これも同型のものだろう。

 

逆に、裏切るもの、希望の嘲笑者、無関係を決め込んだもの、かつては同類であったが失敗によって諦めたもの、これらの人々は高貴さからは遥かに遠ざかった彼岸にいる。そしてこういう人々が世界の大半を構成しているが故に、高貴なるものは、「すべて高貴なるものは稀であるとともに困難である」といったスピノザの言の正しさを思わざるを得ないのである。