具体的なものにそのまま関心をもつことの楽しさ

何もかも、具体的な事物が世界の本質である。逆に一般化された抽象的知識は虚しい。具体的な事物は、必然的に存在するが故に、必然性のない性質を兼ね備えている。それゆえに一般化された概念を除いても、なにか残るものが必ず存在し、それが我々がぶつかるべきものである。

 

およそ、退屈というのは、こういう具体的なものに対して、自分の頭脳によって一般化し、概念の形式を通して見るために生じる。

 

もし、過度の一般化をさけて、脳内の自己再帰的な概念の連鎖を断ち切って、目の前の事象や、概念に直接認識の全力を挙げることができるなら、その場合にこそ、まったく退屈というものは避けられる。しかし、生理的な疲労の場合だけは別である。

 そうした場合、退屈したなら寝るべきである。

あるいは、飯を食うか、お茶を飲むか、とにかく生理的に心地よいことをするがよい。

というのも、退屈というのは、時に生理的欲求不満から、頭脳活動に対して制限がかけられているために、物事を過度に一般化する怠惰がもたらされている場合に起こることが多いからである。