量子コンピュータはどうなるか

Googleがついに「量子超越性」なるものを達成したという。

「量子超越性」が何を意味するのかはさておき、量子コンピュータが非常な可能性を秘めた技術であることは確かである。

 

量子コンピューターの意義は、従来型のコンピュータが、ある時間をかけて1しかできないことを、量子コンピュータであれば、2^nできるということにある。そうはいっても、観測によって得られる結果は2^nの答えのうちのひとつだから、全て網羅的な結果を得られるわけではない。たとえばひとつの解を得ればよいだけの場合や、組み合わせ論的な問題に関しては、実に有用なわけである。

 

ペンローズ氏による量子脳理論が、茂木健一郎さんによって紹介されてから久しい。人間の脳が量子コンピュータであるということはありそうな話ではある。意識の問題が、量子の収束問題と関係するのではないかという推測ももっともだ。

 

NN(ニューラルネットワーク)と、量子コンピュータが組み合わさり、高度な制御理論によって統合されることによって、シンギュラリティが起こるだろう。

その時人類がどうなるのかはわからない。レイ・カーツワイル氏の予言を真剣に受け止めている人間はどれだけいるのだろうか。

(ちなみに、最近の現代哲学者が「意識」の問題、「心の哲学」などというものを持ち出して、AIの不可能性を説いたりしているようだが、見当違いだし、まったく無用なことである。「意識」の問題が、シンギュラリティの可能性に対して何の障壁にもならないことは、意外に多くの人がわかっていないようである。)

新しい江戸のつくりかた

工学の世界で、技術革新が起こったように、社会の仕組み自体にイノベーションを起こすべき段階にきている。

 

今の社会の枠組みというのは、その基底構造を、古ぼけた19世紀の曖昧な法哲学に依っている。しかしそれが最適とは限らないだろう。

 

ジョン・フォン・ノイマンらによる『ゲームの理論と経済行動』はその点で非常に想像力を掻き立てる書物である。おれは、この書物に、数学的な政治理論の構築の端緒があるのを見た。

数学的分析によって、三権分立よりも効率的で安定な、権力分立構造が見出されるだろう。特に、富という権力が無視されてきた点は見逃せない。資本という権力もまた、より強い check and balance の対象とされるべきであろう。

 

これまで地球上で最高の社会設計者は、家康公である。実に美しく楽しい理想社会江戸を作り上げた。江戸を理想化するのを嫌う人たちがいるが、やはり史実をひもとけば、世界に例のない素晴らしい都であったことがわかる。その社会の仕組みは、明治政府以来の現代の日本の枠組みよりも、繊細で、高度なものであった。

 

私たち日本人は、その点で一歩後退してしまったというべきだろう。科学技術においては劣っていたかもしれないが、政治機構においては、外政には不向きであったけれども、内政においては近代的社会よりはるかに優れていた。

 

社会の単位は都市である。そして都市はひとつの有機的な機械である。生物である。

ここで、ウィーナーの『サイバネティックス』なる名著にも示唆されている通り、制御理論が重要になってくる。

社会を一つの生物とみて、それを素晴らしい制御装置で、統治し、人々に活気ある生活をもたらすことはできないか。

 

シンギュラリティの後に、AIがもし親切であってくれたならば、今述べたビジョンとほとんど同じことをしてくれるだろう。すなわち、数学的に完全な社会設計をしてくれる。しかし、できることなら、家康公がしたように、その偉業は人間の手で成し遂げたいものである。できれば日本で。

Japan, Be Ambitious!

日本という国は今全然ダメである。

まったく国に覇気というものがない。とくに、大学生、社会人、堕落しきってしまって、ふにゃふにゃになっている。

一番ダメなのが、男たちである。今の日本の成人男性、これほど情けないものはない。これからは女性の力などと謳われているが、おれからしてみれば、これまでも、これからも、男の力こそが社会を真に発展させる原動力なのだといいたい。サルバドール・ダリのあの名言が言い得て妙である。

 

だから、今おれが、Japan, Be Ambitious! というのは、日本人女性に対してではなくて、日本人男性にいうのである。日本人女性に対しては、Be  virtuous! とだけ言っておく。

 

トランプ大統領は、宇宙軍創設を発表した。これは、のちに彼の先見の明を示すものとして回顧されることになるだろう。というのも、宇宙開発は、人類存続のための唯一にして最大の方法だからである。

 

さて、日本の宇宙開発というのは、JAXAなる優秀な宇宙開発機関が存在しながら、素人目には、非常にしょぼいことをやっているという印象をうける。はやぶさ小惑星の石ころを持ち帰ったというニュースを見ても、たいして感心はしなかった。月に到達したアポロにくらべて、なんと夢のないプロジェクトだろう。それで、生命体の秘密がわかるかもしれないなどと言っていたが、おそらく、分析したところで、大した元素は含まれていないに違い無い。事実、それ以降発表はないじゃないか。ただ、宇宙空間であれだけの細かい作業ができ、それを無事帰還させられるというのはすごいことであって、もっとスケールの大きいことを考えるべきである。これでは宝のもちぐされというものだろう。遠洋航海ができる宇宙船を作るくらいの挑戦はできるはずだ。

 

AIにしても、そうである。国産検索エンジンがあってもいい。それが世界中を席巻していてもおかしくない。あるいは、国産のOSのスマートフォンがあっていい、それがiPhoneのように世界中で愛用されていてもいい。トヨタが車で成し遂げたことを、なぜ今の日本人はできないのか?

 

音楽にしても、昭和から今にかけての音楽は堕落しきっていて、青少年の男女の精神に害悪しか及ぼしていない。

偉大な文学は、もう50年ほど現れていない。

横山大観のごとき、日本精神の発露たる日本画は描かれていない。あの美しい赤富士を描く人はいない。

政治家にしても、吉田茂岸信介田中角栄など、あの個性あふれる面白く、独自性のある政策を果断する政治家があらわれていない。

 

こういう風になってしまったのは、武士道がことごとく廃れてしまったからである。日本の男は、気合いをいれてくれる精神的支柱がないと、すぐに女に支配されてしまうようである。農耕民族の宿命であろうか。

女に支配されていては、男の創造力は発揮できない。

 

優秀な日本人男性、東大やそれに準じる大学に通うだけの学力のある人、あるいは、学問はなくとも気骨のある人は、四書を読むことをおすすめする。すなわち、『大学』、『論語』、『孟子』、『中庸』である。これによって精神に喝をいれるとよろしい。とくに、『孟子』は素晴らしい書である。

MAKE JAPAN GREAT AGAINと言ってくれる、日本版トランプが現れるくらいじゃないと、日本の将来は危ない。

政治力が経済力に勝利しなければならないことについて

経済という怪物を手懐けるのが政治の仕事である。

 

そういう意味で、今の世の中はうまくいっていないと言わざるを得ない。

経済の方が、力を持ちすぎているのである。

政治の方が、経済のほうに首輪をつけられて、リードに繋がれて散歩させられているような状況である。

 

例えば、今の少子化の問題、何が悪いか。

女の最も重要な役割は子供を産むこと、育てることである。

それなのに、女を労働者にしたてあげようとしている。

これは資本主義という怪物の悪だくみにすぎない。

女というのは、よく消費してくれるから、彼女たちが子供をうまずに、色々旅行なり、おしゃれなりにお金を使ってくれるほうがいいわけである。そのためには、彼女たちが自由になるお金を自ら稼ぎ出してもらったほうがよい。

こういう風に考えて、経済界主導で、男女共同参画は取り決められたのであった。

 

こういう悪しき風潮に政治が、ガツンと喝をいれなければならないのに、そういう力がいまの政治にはない。それで、手をこまねいて、本音も言えずに。

 

例えば、江戸時代なんかは、商人と違って、武士は食わねどつまようじと言われたように、貧乏でも刀、暴力は独占していた。これでバランスが取れていたわけである。つまり、道徳の守護者として、武士は極めて政治的な存在であった。

江戸時代のほうが、現代よりも成熟した社会だった。

 

女というのは、子供を産み育てるだけではなくて、家庭文化、生活文化の保護者にして、継承者でもあった。そして、生活文化は、その国のあらゆる文化を規定する根本である。こういうものが、すべて失われていていっている。

 

人間というものを、空疎な理想論ではなくて、真実の目で直視するべきである。現実の人間、生きている人間の、本当の生活、本当の道徳とはなんなのか。そういうものをしっかりわかって、経済というわがままな怪物を、手懐けられるだけの政治家があらわれないといけない。

ミッシェル・フーコーの話

おれは最初によんだ人文系の専門書が、フーコーの概説本だった。

 

ただ、パノプティコンの例えは印象に残っている。

パノプティコンは、円形に配置された収容者の個室が多層式看守塔に面するよう設計されており、ブラインドなどによって、収容者たちにはお互いの姿や看守が見えなかった一方で、看守はその位置からすべての収容者を監視することができた。(wikipedia)

フーコーは、これが新しい近代社会の縮図であるというわけである。すなわち監視による規律、こうしたものが身体化されることによって、権力というものは、内部のなかに、相互作用するような形で、構造的に社会に遍在するということを言った。

 

iPhonetwitterで、世の中はすっかり相互監視社会になったわけで、フーコーの説は正しさを増してきている。

 

総じて、フーコーの問題提起というのは、性の歴史にせよ、権力論にせよ、現代に対する一つの先進的な問題提起だったが、その問題提起に対して何一つ回答を用意しないまま、世界は突き進んでいる。

 

しかし、おれの立場というのは、そもそもそういう現代的な議論の土俵にたつことはしないのである。それを知的怠惰さと言われてしまえばそれまでだが、現代人は素朴な倫理的直感とでもいうべきものを失っていて、それが問題だと思う。

「知的」なものが何かは知らないが、現代哲学にせよ、現代の学問というのは、あるいは思想というのはただの「ポーズ」になってはいないか?時にそれは社会におけるある種の人間の置かれている立場というものを明確にはするが、それは答えにはならない。

 

現代人は、なぜか科学技術の進歩に伴って自分の頭脳も進歩しているかのような錯覚をしている。しかし、彼らはコンピュータの作動原理から、ルソー、ホッブズモンテスキュー、ロックに到るまで、現代の基礎となっているものを何も知らないという場合がほとんどなのである。それどころか、ユークリッドの原論に書かれている数学さえ、解けないという場合が多い。だから、現代人に多くを期待することは間違いである。

 

倫理観念にしても、現代人は、いつのまにかおかしな方向にいっていて、子供達のほうが大人よりもはるかに正しい倫理観を抱いている。それはなぜかというと、子供達が生来有する倫理的直感とでもいうものを、大人になるにつれて、現代の悪しき風潮が、歪め、曇らせてしまうからである。

 

現代人は、「思想」などというものを自分たちの足りない頭で議論することなどやめて、古典を勉強したほうがよろしい。

そういうわけで、今のおれには、『論語』や『孟子』の方が面白いのである。

現代人の常識

思想を知らない人というのは、現代という空気感の思想に生きている人だと思う。

だから、彼ら彼女らが、まったく思想というものを軽蔑して、現代的唯物論のなかで合理的に、自らの経験だけに基づいて真っ当に生きていると考えているならば、それはあながち間違いではない。

 

残念ながら、実際には、そういう人たちが自ら獲得したと考えている一種の人生観は、ニーチェの粗悪なコピー品のように見えることが多々ある。

 

現代人の思想に深く根をおろしているのは、

1)フロイト

2)ダーウィン

3)ニーチェ

これら三人の思想であって、知らず知らずのうちに、彼らが発明した強力な世界観のうちにのみこまれているのが、現代の人間たちなのである。

 

こうした思想はとくに、若い女性に最悪の影響を及ぼしていると言わざるを得ない。

女性というのは、うまれながらにして優生学者であって、それは必要なことではある。しかしそれは理屈なしに行われるから良いのであって、社会が組織的に行えば、それは激しい批判にさらされる。結局、人間という種の健全な発展は、女性の自由意志によって正当化され、守護されてきたのである。

 

本質的に、女性が優生学者であるからこそ、女性には一層の倫理教育が不可欠であった。というのも、人間は自らの動物的本能に抗う手段を得てはじめて人間たれるからである。それなのに、現代の思想というのは、人間の動物的本能以外に実在的な価値というものは一切存在しないという命題を打ち立ててしまって、一切の精神的反省というものを排除してしまった。

 

結局、先進国の衰退の原因は、こうした思想がもたらす女性の退廃にあるだろう。これはまったく確かなことである。

世界史の勉強

世界史の勉強というのは、深淵さと、その範囲の無尽さという点で他の学問より甚大なところがある。だから、世界を勉強する上では、ページの上から下へと、ファクシミリ式で勉強するようなことはしてはいけない。

 

最近、中田敦彦さんのユーチューブ大学なるもので、「エクストリーム世界史」というのをやっていたが、とても面白かった。詳細をことごとく省略して、歴史の大骨格だけをまずは把握するという意味で、「エクストリーム」らしい。

まず、世界史の骨格をおさえて、次に、重要な臓器を配置し、さらには肉付けをしていって、模様を描くというように、抽象度の高いところから、具体的な詳細な知識へと、降りていくようにやるのが一番いい。

 

それにしても、世界史というのは、人文学を全て飲み込むほどの分野である。それは地理学に奉仕させ、経済学と政治学の源泉であり、文学と哲学の系譜である。したがって、世界史は文系諸学の全てを統合している。

 

世界史を見る上での大骨格をまず勉強するのがよいとはいったけれど、それはどのような骨格なのか?ということは難しい問題である。

まずはヘーゲル弁証法歴史観があって、世界の進歩に対する楽観的とも言える見方であった。さらには、そのドイツ哲学の伝統の先に、マルクスがあらわれて、社会主義思想とセットの唯物史観を発明し、それがつい最近まで、東大や京大の世界史教室に影響を振るっていた。

ところが、ソ連は1991年に崩壊し、教授たちはすっかりマルクス主義の看板をおろしてしまった。そのあと、学問がどうなっているのか?どのような体系のもとに展開されているのか?と問う時、そこに一貫性のある学問が喪失したことに気づかざるを得ない。

 

結局、人類が、貴族支配から脱して、民主主義による自由を獲得したという見方、つまり自由主義の勝利というテーマ、あるいは科学技術と経済発展、これくらいしか、我々現代の人類には世界史を紡ぐための糸がないようなのである。そして、経済発展の方を批判する論理は死んでしまい、イデオロギーの終焉がうたわれ、世界史教育というのも、どうしていいかわからない風になってきている。

 

一方で、世界史は、ひとつの面白い読み物である。と考えることもできる。すなわち、世界史から帰納法によって人類の一般法則を導こうとするような、大仰なことはやめてしまって、今ある諸国家や諸民族、そして彼らが作り上げた壮大なる建築や、文化や、都市といったものを把握するための、案内係のようなもの、ツアーガイドのようなものと考えるのも良いかもしれない。

 

我々人間というのは、とかく退屈しがちな生き物であるが、もし世界史というものに興味を持つことができるなら、退屈することを許さないほどの無尽の人類の営みの記録に慰められるだろう。