ミッシェル・フーコーの話

おれは最初によんだ人文系の専門書が、フーコーの概説本だった。

 

ただ、パノプティコンの例えは印象に残っている。

パノプティコンは、円形に配置された収容者の個室が多層式看守塔に面するよう設計されており、ブラインドなどによって、収容者たちにはお互いの姿や看守が見えなかった一方で、看守はその位置からすべての収容者を監視することができた。(wikipedia)

フーコーは、これが新しい近代社会の縮図であるというわけである。すなわち監視による規律、こうしたものが身体化されることによって、権力というものは、内部のなかに、相互作用するような形で、構造的に社会に遍在するということを言った。

 

iPhonetwitterで、世の中はすっかり相互監視社会になったわけで、フーコーの説は正しさを増してきている。

 

総じて、フーコーの問題提起というのは、性の歴史にせよ、権力論にせよ、現代に対する一つの先進的な問題提起だったが、その問題提起に対して何一つ回答を用意しないまま、世界は突き進んでいる。

 

しかし、おれの立場というのは、そもそもそういう現代的な議論の土俵にたつことはしないのである。それを知的怠惰さと言われてしまえばそれまでだが、現代人は素朴な倫理的直感とでもいうべきものを失っていて、それが問題だと思う。

「知的」なものが何かは知らないが、現代哲学にせよ、現代の学問というのは、あるいは思想というのはただの「ポーズ」になってはいないか?時にそれは社会におけるある種の人間の置かれている立場というものを明確にはするが、それは答えにはならない。

 

現代人は、なぜか科学技術の進歩に伴って自分の頭脳も進歩しているかのような錯覚をしている。しかし、彼らはコンピュータの作動原理から、ルソー、ホッブズモンテスキュー、ロックに到るまで、現代の基礎となっているものを何も知らないという場合がほとんどなのである。それどころか、ユークリッドの原論に書かれている数学さえ、解けないという場合が多い。だから、現代人に多くを期待することは間違いである。

 

倫理観念にしても、現代人は、いつのまにかおかしな方向にいっていて、子供達のほうが大人よりもはるかに正しい倫理観を抱いている。それはなぜかというと、子供達が生来有する倫理的直感とでもいうものを、大人になるにつれて、現代の悪しき風潮が、歪め、曇らせてしまうからである。

 

現代人は、「思想」などというものを自分たちの足りない頭で議論することなどやめて、古典を勉強したほうがよろしい。

そういうわけで、今のおれには、『論語』や『孟子』の方が面白いのである。