ビッグデータと統計

ビッグデータというが、あんまり質の高い情報は案外アップロードされていない。

もし徹底的にやるなら、医者と、その患者に、予後の追跡調査とそれに応じることを義務付けるべきだ。それだけの質の高い情報があれば、AIなんか使おうが使わまいが、適切な統計処理によって、有効な治療法や、意味のない治療法、逆に予期せぬ害のある治療法が明確になるし、薬に関しても、どれだけ役立っているのかわかるだろう。飲み合わせのリスクだってもっとちゃんとわかるようになる。

 

こういうふうに、質の高いデータが十分採れていないということを認識するべきである。

 

まず、目標を定め、そのためにどのようなデータが必要なのかを考え、それを適切な方法で得る。あとの統計処理なんかは、簡単にできるのだ。

今の技術でできることは十分あるのに、それをちゃんと活用できていない。これは日本だけではないだろうが、中国なんかは全然うまくやっているようである。

日本のサラリーマンを見ているとだらしない。軽薄なんだな。本気で日本のこと考えているのか?

隈研吾氏にみるこれからの建築

おれは建築が好きだったので、隈研吾氏が注目され始めた初期から、興味を持っていた一人だった。

 

隈研吾氏の作品の特徴は、建築を「箱」ではなくて、「場」と捉えているところにある。「和の大家」とよばれているのは、やや皮相的な捉えかたであって、たしかにモチーフにおいて和のテイストをオシャレに使うけれども、隈研吾氏の本質はそこではない。

 

都市計画と、建築とは本来連続な概念であるはずだ。土地の所有者であれば、どんなものでも立ててもいいのが原則だが、日本においては、街並みに忖度して、空間をつくる人がほとんどだろう。同じように、自然環境や、周辺の環境の主張を飲み込んで、そこに順応していく建築が隈氏のいう「負ける建築」なわけである。

 

おれは、隈さんの感覚がよくわかる。コンクリでつくったヘンテコな造形の、一種彫刻のような主張の激しい物体は、なんだか気恥ずかしい。そこには一種の衒いがなかったか。

そういうものは、個別の作品としてみれば一貫性があるのかもしれないが、街全体としてみたときに、各建築家のまったくバラバラの個性が喧嘩して、調和のない、居心地の悪い空間ができることがよくある。

 

例えば、江戸時代の江戸の街並みの美しさは、もう想像するしかないけれど、おそらく、歴史の中でも有数の美しさであっただろう。しかも、別に「天才」が建築をつくっていたわけではない。職人たちが、自分たちの経験と美学をもとに、実用的な目的でもくもくと作っていった建築なのである。

 

 

日本の街は総じて醜くなってしまった。それは、建築家が、たいしたこともない個性を主張することばかりやって、自主的な都市計画的良心とでもいうものを持たなかっただろう。

これからは、芸術的建築家の時代ではなくて、職人的建築家の時代である。隈研吾氏に続く日本の建築家は、個性を主張するためではなく、技術とディティール、生活のための場を作っていくだろう。そう考えると、日本もまた、美しい景観を取り戻せるかもしれないという期待が湧いてくる。

経済格差の根本原因

21世紀の資本』が話題になってから久しい。

読んでないので、なんとも言えないが、果たしてどれだけ本質的な議論だったのか?

あれがどういうふうに社会に影響を及ぼしたのか判然としない。

 

おれからすれば、誰も本質的な話をしていない。

 

経済格差の原因は、貨幣の価値の貯蔵機能にある。 

 

例えるなら、

漁師が「魚」を釣って、その時点での価値が500円だったとしよう。それを売って、金500円を手にいれる。一方でそれを買った人の「魚」の価値は、どんどん下落していって、食べる頃には新鮮ではなくなり、300円くらいの価値に落ちているだろう。それにもかかわらず、漁師の手に入れた500円は変わらない。

永遠に貯蔵できる価値などないにもかかわらず、金は半永久的に保存できる。したがって貯蓄は常に有利である。

 

本来ならば、生産した価値が下落するにしたがって、交換された金も減るべきであろう。

 

食料廃棄率は25%~30%ほどであるが、この「生産された価値の逓減と、交換された価値の持続とのギャップ」によって理論的に計算した値と一致する。

 

通貨の本質は交換にあって、貯蔵は副次的な機能にすぎない。

これから金が電子化されれば、より自由な経済的枠組みが可能であろう。

そうすれば、人々の預金が時間とともに減っていくような仕組みも作れる。

そうすると、経済はもっとよくまわるし、蓄財なんていうせせこましい根性もなくなって、人々はもっと自由になるであろう。それに、食料廃棄の問題もおおかた解決されるにちがいない。

ノーベル経済学賞をくれ。

「心の哲学」の無意味さ

はるか昔に、古代の賢人が看破した真理を知らないがゆえに、いつまでも見当違いのことを言っているというような現象がよくある。

 

近年で言えば、「心の哲学」なるものがその代表であろう。

「意識」とはなにか?「心」とはなにか?「赤色」のイメージとはなにか?「クオリア」とはなにか?

 

このようなことを問うことはできない。ベーコン、カント、レーモンが何百年も前に解き明かしたことである。我々には、「種族のイドラ」があり、認識は、きわめて限界的である。「クオリア」はおよそ、その認識的な限界の一つの現象だろう。そのようなものを問うことが無意味である。

 

それにもかかわらず、「機械は心をもつか?」という問いには、yesと答えることができる。それには、ショーペンハウエル、ベーコン、カール・ポパーの著作を参照されたい。

この、「機械は心をもつか?」という問いに、「心の哲学」を持ち出して、「否」と答えるのは、考えられる限り最悪の反応である。

 

レイ・カーツワイル氏の、シンギュラリティ論はほぼ正しいと思われる。

しかし、それを確信するだけの思想的な基盤を持っているひとが少ないために(研究者でさえも)、切羽詰まった感じが全然してこない。

これから日本はどうなっていくのだろう。未来都市「ヤマト」は存在するだろうか?

中国の凄さ

おれはつくずく、日本人は中国人から学ばなければだめになってしまうと思っている。

 

中国には感心するところがたくさんある。

その大陸的な気風、おおらかさ、中国的な大人(ターレン)の懐の深さ。

 

李白の詩を読んでいると、古の中国人の風雅さと大胆さの絶妙な共在に驚く。

 

李白は言う、

 

 そもそも、

 広大な天地とは、万物を迎え入れる旅館のようなもの。

 流れゆく光陰とは、永遠に絶えることなき旅人のようなもの。

 

そして彼は、美しい自然を詠むことのできる詩才を讃え、もしうまく詩ができないなら罰杯を飲もうとうたう。

 

日本の文学というのは、一種の湿った、梅雨の季節のような、女性的な感性に満ちている。それに比べて、おれはこの中国の男性的な凜とした文学が好きだ。

思うに、日本人の男にも、スサノオから続く益荒男の精神が潜んでいる。しかし、それはここ最近、隠れっぱなしだ。

 

基本的に、男のありかたは、その精神において男性的な純粋さを求めて、身体において女性の美しさを好むものである。ときに、その精神の美を、女性の身体の美が象徴していると勘違いをしてしまう、これは悲劇である。

 

結局、男性が、自らの理想主義の拠り所とできるような、男性による、男性のための文化が、日本には決定的に欠けているようである。

だから、日本男児が輝きを取り戻すためには、漢学の再興が不可欠であるだろう。

 

最近の日本について

 最近の日本はどうしてしまったのか。まったくなっていない。といっても平成うまれなので、昔の日本を身を以てしっているわけではない。だが、小さい頃から平成という時代の日本に違和感を持っていた。

 

 おれが小さい頃には、AUだったか恋愛ソングを携帯で聞くサービス(リスモ?)のCMがよく流れていた覚えがある。2000年代には特有の青春的センチメンタリズムの雰囲気があって、子供ながら、妙な感じをうけた。

 

 はっきりいって、昭和以降の日本の音楽はあまりにも叙情がすぎる。日本人というのはややもすると感情に流れやすい。だから日本人の本質の発露の一つではあるのだろう。

 

 武士の論理、儒教の論理というのは、そういう日本人の心をキュッと引き締めてくれる冷水のようなところがあったんじゃないか。

 江戸、明治の異様な発展の勢いと、そこにうまれた日本人の偉大さは、どうも漢籍、中国の古典の大陸的な雄大さと一種のマッチョイズムの賜物らしい。

 

 吉田松陰孟子を敬愛していた。

「自ら反りみて縮くんば、千万人と雖も吾往かん。」

この言葉をどれだけの人が知っているだろうか。令和、偉大な日本が戻ってくることを願う。