「心の哲学」の無意味さ

はるか昔に、古代の賢人が看破した真理を知らないがゆえに、いつまでも見当違いのことを言っているというような現象がよくある。

 

近年で言えば、「心の哲学」なるものがその代表であろう。

「意識」とはなにか?「心」とはなにか?「赤色」のイメージとはなにか?「クオリア」とはなにか?

 

このようなことを問うことはできない。ベーコン、カント、レーモンが何百年も前に解き明かしたことである。我々には、「種族のイドラ」があり、認識は、きわめて限界的である。「クオリア」はおよそ、その認識的な限界の一つの現象だろう。そのようなものを問うことが無意味である。

 

それにもかかわらず、「機械は心をもつか?」という問いには、yesと答えることができる。それには、ショーペンハウエル、ベーコン、カール・ポパーの著作を参照されたい。

この、「機械は心をもつか?」という問いに、「心の哲学」を持ち出して、「否」と答えるのは、考えられる限り最悪の反応である。

 

レイ・カーツワイル氏の、シンギュラリティ論はほぼ正しいと思われる。

しかし、それを確信するだけの思想的な基盤を持っているひとが少ないために(研究者でさえも)、切羽詰まった感じが全然してこない。

これから日本はどうなっていくのだろう。未来都市「ヤマト」は存在するだろうか?