具体的なものにそのまま関心をもつことの楽しさ

何もかも、具体的な事物が世界の本質である。逆に一般化された抽象的知識は虚しい。具体的な事物は、必然的に存在するが故に、必然性のない性質を兼ね備えている。それゆえに一般化された概念を除いても、なにか残るものが必ず存在し、それが我々がぶつかるべきものである。

 

およそ、退屈というのは、こういう具体的なものに対して、自分の頭脳によって一般化し、概念の形式を通して見るために生じる。

 

もし、過度の一般化をさけて、脳内の自己再帰的な概念の連鎖を断ち切って、目の前の事象や、概念に直接認識の全力を挙げることができるなら、その場合にこそ、まったく退屈というものは避けられる。しかし、生理的な疲労の場合だけは別である。

 そうした場合、退屈したなら寝るべきである。

あるいは、飯を食うか、お茶を飲むか、とにかく生理的に心地よいことをするがよい。

というのも、退屈というのは、時に生理的欲求不満から、頭脳活動に対して制限がかけられているために、物事を過度に一般化する怠惰がもたらされている場合に起こることが多いからである。

 

期待と失望の連続について

すべて高貴なるものであれば、多くのことに関して、期待と失望の連続がある。

 

というのも、高貴であればあるだけ、少ない部分から、美しい理想の全体を頭脳の中で構成することができるからである。

三島由紀夫にせよ、少なからず女性に辛辣なことばを残した男というのは多いが、それというのも彼らはその明敏なる感性と頭脳によって、女性の身体的美しさから、精神的な美までをも構成するだけの想像力の持ち主であったために、失望することもあったのだろう。

 

いずれにせよ、高貴さとは、希望のことである。あるいは、どんなに失望させられても、尚も希望を持ち続ける態度である。

アメリカの古典的名作『The Great Gatsby』のギャッツビーの輝きもこれによる。

 

オルテガも、ショーペンハウエルも、真の高貴さは血統ではなく、その精神のあり方にあると言っている。だが、それは時として高貴とは程遠い有様を外面においては現すかもしれない。逆に、まったく現状に満足した余裕から現れる血統的貴族の高貴さをどのように考えれば良いのか。

すなわち、高貴さの形式とは、血統的貴族の優雅さである。一方高貴さの原因、根本は、精神的高貴さである。したがって、原因はその外面において結果を表すとは限らない。しかし、常に本質は原因にある。

 

ギャッツビーは、緑のランプの先にある虚無を、薄々把握していたにちがいない。しかし、それを見て見ぬ振りをし、希望を持とうとする態度が高貴なのである。

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」と松陰はよんだが、これも同型のものだろう。

 

逆に、裏切るもの、希望の嘲笑者、無関係を決め込んだもの、かつては同類であったが失敗によって諦めたもの、これらの人々は高貴さからは遥かに遠ざかった彼岸にいる。そしてこういう人々が世界の大半を構成しているが故に、高貴なるものは、「すべて高貴なるものは稀であるとともに困難である」といったスピノザの言の正しさを思わざるを得ないのである。

日本をだめにする馬鹿者たちについて

おれは、この前この記事をかいた。

mywayofthinking.hatenablog.com

そうしたらちょっとブックマークしてもらったが、そのコメントの馬鹿さ加減には失望した。

中には参考になる意見もあったが、馬鹿の一つ覚えで、インフレ云々とか言ってくる人たちがいたり(まったく見当違いだが)、取るに足らないとでもいいたげな生意気なコメントなど、この重要性を理解する能力がないようだった。

ついには、「あたまがわるい」などという、無礼極まりないタグをつけてくるバカがいたが、絶対におれはその人間よりはるかに頭がいい。

 

ネットで、どうしようもないコメントをするやつというのは、概して勉強不足のくせにプライドだけが高い。こういうのが日本を悪くしている。

 

50年もすれば、おれの書いたことがいかに正しいか判明するだろう。

しかしその時も彼らは厚顔無恥ぶりを発揮し、すっかり自分の言動を忘れているだろう。

ショーペンハウエルという人

今おれが持っている『幸福について』というショーペンハウエルの書いた小論の文庫本は、新潮からでていて、青空のかわいい表紙で覆われている。

よく、店頭の目立つところに売っているから、読まれた人も多いのだろう。評判も高いのだと思う。

幸福論なんていうものは、およそ読まずにさけていたが、高校生の終わりころか、大学生の最初のころにこの本を手にとって、とても衝撃を受けたのを覚えている。

 

これほど、愉快で、楽しい気持ちになる哲学者の著作をおれは知らない。この書物は、実にショーペンハウエル一流の、ひねくれたウィットに満ちているが、不思議とそこにはあたたかい、楽しい気分が漂っている。

ショーペンハウエルを厭世の哲学者とはいうが、キルケゴールや、ニーチェや、あるいは哲学者ではないけれどもカフカのような、ああいう陰鬱な思想はまったく感じられない。

 

ショーペンハウエルはその思想の中で、世界の全ての「物自体」を意志であると力強く規定し、最後にそれを拒絶し、涅槃の境地に至ることを説く。

それに対して、ニーチェは、その意志の思想を引き継ぎながら、「意志」を拒絶するのではなく、肯定することを言った。それは、独創的というよりも、むしろ自然なことである。

というのも、ショーペンハウエルは、意志というものの必然性をあれだけ説いておいて、最後の数ページで唐突に、それを拒絶するべきだという結論を与えるが、どうこじつけてみても、整合性がとれないように思われる。

 

結局、ショーペンハウエルという人は意志の人であったようである。その生涯からみても、実に人間的に、いきいきと生きている。健啖家で、おしゃれで、つねに銃を近くにおいて寝る男が、意志を否定することなどできるはずがないのだ。

だから、この幸福論の方が、ショーペンハウエルの思想の本当のところであったのだろう。ショーペンハウエルの「ポーズ」よりも、晩年にのぞかせたその純真な少年が得た老獪なる知恵というアンビバレントな魅力が、人を惹きつけてやまないのであろう。

はてなブックマークはだめだね

わけのわからないことでバンされた。

 

はてなブログはとてもいいが、はてなブックマークを運営している人たちはおかしいんじゃないか。

そのうえ、不服申立は一切受け付けないなんて書いている。

こんな乱暴なやりかた、アマゾンでもやらないよ。

トランプ大統領の中庸

トランプ大統領は実は中庸を得た人である。

 

彼に思想的極端さはない。ただ現実主義であり、現実をそのままに見つめ、そのまま話している。

だが、アメリカには、political correctnessなる概念が近年言われるようになって、事実であっても、差別的な表現になってしまうならば慎まなくてはならないという風潮がある。これは概して良いことである。理性と優しさの発露ではある。しかし行き過ぎは禁物であろう。

 

トランプの女性に関する発言も、ほとんどは、世の中の男性が実感していることであって、過激でもなく、一種の世間知としての凡庸な真理を含んだことばにすぎない。

 

中絶に関するトランプ大統領のスタンスも痛快である。

  • トランプ:私は完全にプロチョイスだ。中絶のことは嫌悪している。嫌いだ。胎児の殺害を意味する全てを嫌っている。私は人々がこの話題で言い争うのを聞くだけで、身のすくむ思いがする。しかし、そうであっても選ぶ自由を認めるべきなのだと思う。それに……あるいはニューヨークの人々の物の捉え方には、他の地域の人々とは少し変わっている部分がある。そして知ってのように、私はニューヨーク生まれの人間だ。この町で大きくなって、働いて、ニューヨークシティで形作られた。なんにせよ、プロチョイスを強く支持している。だが堕胎も嫌悪している
司会者:ではトランプ大統領は堕胎を禁止しますか?
トランプ:いいえ、自分はどの点でもプロチョイスだ。しかし、嫌いなんだ[578]
  • 自分は全面的に「中絶の自由」を支持する。「中絶の自由」を嫌悪しているし、「中絶の自由」など口にするのも嫌だ。そして自分が「中絶の自由」の支持者だと言うことを恥ずかしいとも感じる。だが支持する他ないように思われるから「中絶の自由」の支持者だ[579]。(wikipedia)

 

トランプ大統領の特徴は、素朴な倫理観念と現実主義が、高度な実践的知性によって統合されている点にある。このような人は、まさに今世界が求めていた人であった。

トランプ大統領の果たした世界的な、一種の盲進的な自由主義進歩主義に対する痛快なアンチテーゼとしての役割はよく評価されるべきだ。

地方について

地方ほど人口がなければだめである。

というのも、優秀な人間は地方を離れるのは当然であって、優秀な人ほど国家のためのことをしなければならないのだから、悪いことでもない。

そういうことだから、地方は、とにかく楽しく暮らしていっぱい人口を生み、突然変異のような優秀な人間を生んで、東京に送り込むのが務めである。

 

地方衰退なんていうのは本質ではない。

センターピンは少子化それだけ。

 

とにかく、女性にくちやかましく男に云々いう権利を与えたのがまずかった。

これは啓蒙主義の最大のミスである。優秀な啓蒙主義の学者に限って、女性の本質というものをわかっていなかったんじゃないか。

女性というのは、順応性の高い生き物だから、ダメと言われたことはやらないし、これしかないですといわれたら大人しくその中から選ぶものである。男にしても。

 

現代人は、現実の人間の有様を、そのままに見つめることができなくなってしまったのだろう。

古代の人々よりはるかにナイーブである。